淡路町画廊, 東京

2001年10月31日 - 11月17日

見るとはいったいどういうことなのだろうか? 多くの幻想、多くの信念、多くの記憶、知識、経験から自由になって ただ見るということが可能だろうか?

象山隆利

 

例えば、道で偶然、知人に出会った時、相手とのコミュニケーションはその相手に関する記憶をベースに始まります。もしも記憶が曖昧ならば、相手が何処の誰かも気づかないまま通り過ぎてしまうかもしれません。私達は普段、あたりまえの事として、特に意識しないまま、記憶に頼って生活しています。その一方で、私たちは現在の相手が持っている「空気」を敏感に感じ取ります。 「お久し振りです。お元気でしたか」と話しかけながら、「どこか、やわらかくなったな」 とか、「なんだか、やつれたな」などと察しています。それは、第六感、あるいは動物的な直感なのかもしれません。また、その時の自分の意識状態によっても、相手に対する反応が変わります。気分が良い時と悪い時では、会話の仕方もおのずと異なるでしょう。つまり、自分が相手に与える印象も、相手を見る自分の目も、その時々で変化している訳です。

ある側面から見ると、私達は記憶や感情、気分といった二重、三重のフィルターを通して、外界と接触しているとも考えられます。これらのフィルターは俗にアイデンティティと呼ばれるような、「自分」という存在を形成するパーツとして常に機能しており、私達を個性化してゆく大きな要因となっていますが、反面、外界に接触する際、ダイレクト感を損なう可能性も内包しています。この事だけが原因ではないでしょうが、例えば、テレビを見るような感覚で現実を受け取ってしまったり、他者とのコミュニケーションにおいて、お互いに相手のフィルターを理解出来ずに衝突するケースもあると思います。複雑で移ろいやすいコミュニケーションの下、自分で設定したアイデンティティに逆に縛られてしまい、本当の自分を見失ってしまったり、外界と自分とのバランスが取れなくなったりするのです。

象山さんの故郷は海に面した小さな都市、静岡県沼津市のはずれにあります。実家からは数秒歩けば海岸に出られます。漁業が盛んで、ひものを干している風景なども見られますし、振り向くと、すぐそこに小さな山が並んでいる様な環境です。と言うと、さぞかし自然に恵まれている土地なのだろうと御想像なされるでしょうが、実際には、逆方向に少し歩けば、細い上に交通量の多い、少しばかり息苦しい道路に突き当たります。その道路を富士山の方角へ向かってゆくと、少しずつ背の高いビルが増え始め、沼津駅周辺にたどり着きます。

彼の作品に見られる船のフォルムや水に対するこだわり、自然指向と都市感覚の共存、そして人為的な作業と偶然性、あるいは非現実性と現実世界とのバランスの取り方は、少年期を過ごした、こうした環境下で育っていったものなのではないか、と推測できます。「粘土を高温で焼きしめることにより、自分の意志では制御できない独特の素材感を作品に獲得させる」という彼の手法自体、自分自身をこの世界の中でリアルに存在させる為の、具現化されたバランス感覚なのだと思います。その手法により生み出された作品は、ある種の厳しさと広い許容力が同居しており、表現として自分を押しつけてくる代わりに、クリアーな意識を鑑賞者に求めてきます。

それは、ひっそりとした山奥に、一人たたずんでいるような印象です。見晴らしのよい高台からは空と山しか見えません。やがて、遠くの山へゆるやかに日が沈んでゆき、少しずつ周囲の景色がかすんでゆきます。そして、心細さや恐怖感を通り越し、記憶や感情といった自分を形成していたアイデンティティが薄れ、周囲の情景と自分との間に介在していたフィルターが氷解してゆく時・・・ あたりからは物音一つ聞こえてきません。にもかかわらず、そこには「静寂」という名の純粋な音楽が存在しています。私は象山さんの作品からそのような音楽を聴いているのです。

沢田守秀(ミュージシャン)

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