巷房, 東京

2017年1月9日 - 21日

‘白’い記憶

繁華な銀座通り。「奥野ビル」(川元良一設計1932)はその裏通りの一角で昭和の香りを伝えている。このビルに入るのは久しぶり。刻んできた時の記憶がビルのあちこちに埋もれている。
若い女性がひとり、カメラを抱え、ビルの階段、布目のタイルで覆われた柱や壁を写していた。
傍らをすり抜け、静かに階段をのぼっていく。
案内をいただいた展覧会場は3階と地下。

まず3階をみる。
白いペンキで統一された室内をぐるりと見渡す。入り口近くには床に船のスクリューを模した作品。低い木製の台にはセラミックの船が一艙。奥に鉄製の円環におかれた円盤状の作品。これもセラミック製。大きな作品はこれら3点。ふたつの窓辺には小型の船状の作品が置かれている。水を騒がせ、波を起こし、風が吹きわたり、船が滑走する海の上の記憶のインスタレーションか。タイトルは付されていない。

そのうちの1点、木製の台に置かれた船。船の先端、そして船尾は流れるような鋭角である。

日の光を受け、すべるように海面を移動している。船上のさまざまな突起物は過去の出来事。

それらの出来事は同時に奥の円盤状の平面に断続されながら併置されている。過去に生起したいくつかの出来事。それを表わすには可塑性に富むセラミックがふさわしい。痛みをともなうような出来事も、時の癒しに委ねるかのようにセラミックを白い化粧土が覆う。記憶のなかで幾重にも重ねられたイメージは白い空間に浮遊する。儀礼に用いられる場合は措くとして、 ‘白’は日本人が最も好む色だという。 ‘白’は、表現を抑え、出来事の起伏を鎮めさせようとする媒材でもある。そこに生起した幾多の出来事を暗示させつつも、 ‘白’は出来事の発生を予告し、終結をほのめかせもする。化粧土の‘白’はそういう色なのだ。その始原の状態に想いをめぐらすための水。海、そして水を介した記憶。

この空間は作者の過ごしてきた記憶の原風景なのだ。

地階に降りていく。
深海に浮遊するかのような空間が展示室、ドアの奥にひろがる。 テグスで結ばれた無数の小石が天井からランダムに下げられる。ここは深海。それは宙づりされた記憶という意識の深い底。そこには静謐な時が流れていた。過去の出来事を暗示させて浮遊する小石。室の中のライトに照らされた小石が白く空中に浮遊していた。記憶のうちのある出来事に焦点をあてられたかのように。さまざまな出来事を覆い ‘白’という記憶を携えたイメージがそこに生まれていた。
しばらく私はそこに立ちつくしていた。

この世には決して声高に主張しているわけではないさまざまなものが確かに存在している。
ひとつひとつの出来事が、さまざまなイメージを携えながら、ひっそりと息づいている。
私たちは支えているものをさがしてしばしばさまよいもする。 そして気付く。ひっそりと息づいている小さなひとつひとつの出来事が私たちをささえているものだと。意識の底に深く沈潜し、記憶となって埋もれているもの。始原を暗示し、たたえた水に、‘白’はその存在を知らせる媒材として、ある。

「記憶それ自体が芸術であり、多様な芸術全てを統合したものである。古代ギリシア神話は、記憶の女神ムネモシュネをミューズの女神たちの母としたとき、ある意味でこのことをはっきり見抜いていたのである」とイタリアの哲学者アントニオ・ルッシは語る。

記憶、それは過去のある一点の痕跡ではない。それは、つねに湧き出るものであり、想起される時点で新たに再構成されるような性質のものである。それはまた、現在を語り、未来へ投影し移行していくものでもある。

象山隆利は多様な芸術の源である記憶を視覚にのぼらせるすべについて思考をめぐらしている。熟慮されたその手法はわたしたちに記憶のありように気付かせ、そのかたちをそっと教えてくれている。それは、象山自身のものでありながら、私たちが探し求めてきたものでもあるのだ。

洗われたような思いでビルの外に出た。
冬の夕刻、あたりはもう暗かった。

伊豆井秀一(元埼玉県立近代美術館主席学芸主幹)

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